娘へ

あなたはこうしてできています

「自分で決める」って、ほんと大事ってエピソード1

下は、10年ほど前に渡豪した2人の男性A君とB君の話です。

 

2人はいとこ同士で同い年、A君は恵まれた家庭環境、B君は厳しい家庭環境に育ち、まったく違う大人になりました。この話をA君の母親から聞いて思ったのは、月並みな結論だけど、「自分で決めるって大事だよね」ってこと。

 

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「息子に申し訳ないことをした」ある日、知り合いから聞きました。彼女の息子さんA君は28才、高卒から引きこもり、今は大学生でもあります。働いたことはありません。

A君は4人家族の長男で下は妹、ご両親は夫婦で手を繋いで散歩するような仲良し、母親はかなりの世話好きで料理上手、金銭的にも恵まれていて、おそらく何不自由ない幼少期だったと思います。

A君は小学校でいじめに遭います。同じメンバーが持ち上がる中学校でも、いじめは続きました。手を尽くしても解決できず、引っ越して転校しました。ですが、引っ越し先でもいじめに遭ってしまいます。

ご両親は彼を守るため、国を離れる決心をしました。自国の厳しい教育環境がA君には向いてないという考えもあったのかもしれません。移住先はオーストラリア。

その決断は功を奏し、渡豪後のA君はいじめに遭うこともなく、高校まで無事に卒業しました。そしてその後、引きこもりになります。

A君の胸中は分かりません。元気だし、働く意欲もあります(と本人は言っている)。でも、ただ、働かない。

母親は、「どうしてか分からない。どうしたら良いのかも分からない」と肩を落とします。

 

それから7年後、このままではいけないという父親に説得され、A君は地元の大学に入学します。今から1年前、卒業目前のA君に会った時は「卒業後はまずはカフェでバイトしてバリスタの資格を取り、経験を積んでから起業したい」と言っていました。ですが、具体的な動きのないまま今日を迎えています。その間、母親は親戚や知り合いにA君ができる仕事はないか聞いて回ったり、A君にバイトを紹介したりしていましたが、どれも徒労に終わったようです。

 

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B君の話です。

B君は小学生の時にご両親が離婚して、父親と二人暮らしでした。離婚の原因は分かりません。

B君は家でも学校でも荒れていました。何かしらのサポートが必要だったと思いますが、父親はいつも仕事で忙しくB君との時間が十分取れずに過ごしていました。父親は、B君が手に余ると感じていました。

そんなある日、いとこのA君一家が渡豪すると聞きます。父親は思い切ってB君をA君一家に預けることにしました。一緒に渡豪させるのです。その時のB君の気持ちは分かりません。「母親にも父親にも投げ出された。」そう感じてもおかしくない状況ではあったなと想像します。

 

B君は、渡豪後も荒れていました。高校では悪い仲間と連んで学校をサボっては、酒やタバコの日々でした。

ですがある時、転機が訪れます。どんなきっかけがあったのか分かりません。B君は自ら選んで専門学校に入り、調理と車両整備の資格をとります。さらに調理師として永住ビザを自力で取得までしました(これはとてもハードルが高いことです)。小中高とあんなに荒れていたB君、今では結婚して子供も2人授かり、パースで元気に暮らしているそうです。

 

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何不自由ない環境に生まれ育ち、大人になった今もそのまま過ごしてるようなA君。人生が横一直線の棒グラフのようです。対してかなり下の方からグラフが始まったB君は、ある所からグイッと上昇し、わずか数年でA君を一気に抜き去ります。このグラフの動きの違いは、「自分で決めて生きてきたかどうか」にあるように感じます。

A君はこれまで、夕飯のメニューから大学進学するかどうかまで、おそらく多くのことを自分で決めてきませんでした。母親が面倒見のいい性格だったというのも、大きな理由だと思います。彼はその生活に違和感を覚えなかったため、無思考に流れに身を委ねてきたのでしょう。結果、成人して親や先生が自分の手を離した時、自分で歩くことができなくなっていました。

一方で、不遇な生い立ちから10代後半まで荒れていたB君は、親にも学校にも社会にもずっと反抗心や違和感を抱き続けてきたのでしょう。学校や社会の中で、どうやったら自分のしたいことができるのか、認めてもらえるのか。社会に沿うような形で、かつ自分のしたいことはあるのか、あるとしたらそれは何なのか。自分と社会の噛み合わなさを解消するためには、こうしたいろんなことを考えざるを得ません。酒やタバコも含め、試行錯誤の連続だったと思います。

10代前半で親元を離れたこともあり、結果B君は、毎日の生活から自分の身の振り方まで自分で考えて決めてきた、と言えるでしょう。


「自分で決めた」という事実が、辛くても乗り越えようという気力につながる。

「自分で決めた」という事実が、成功した時に真の喜びをもたらす。

「自分で決めた」という事実が、自分の人生のハンドルを握っているという実感をくれる。


B君は辛いながらも大小さまざまなことを自分で決めてきました。その繰り返しが、B君に自分で決める力を育てました。自分で決めてきたという事実が、B君に自信や気力や生きる実感をくれたのだと思います。

冒頭でA君の母親、「息子に申し訳ないことをした」の後、こう続けました。「もっと自分がいろいろ調べて、息子をより良い道に導いていたら、引きこもりにはならなかった」と。これを聞いて、問題の根深さを感じました。

 

育児の目標の一つは、子供の自立を助けることです。日々の育児の中で、子供が「自分で決める」練習をするのを、助けたり見守ったりすることがどれだけ大切か、改めて感じたエピソードでした。

「選んでもらえる人になる」ということ

私がTwitterやYouTubeを始めた理由の1つは、うちの子らにも早くから発信者になってほしいからです。発信者でいる(発信し続ける)利点はいくつもありますが、そのうちの一つが「選んでもらえる人になる」ことです。

この点について、少し掘り下げてみます。

 

たとえばTwitterアカウントを持ってても、何も発信してなかったりリツイートしてるだけだったりだと、Twitter上では透明人間とほぼ同じです。「そこにいること」は分かるけど、中身(人格)が見えない。それでは誰にも選んでもらえません。私がTwitterで繋がる人たちに「この人と話をしてもいいな」と選んでもらえたのは、私が今まで発信してきていて、かつその内容に共感や興味を持ってもらえたからです。


SNSを通して自分が「選んでもらえる人になる」機会は、「友達として」だけではありません。

例えば私が「この人と仕事をしたい」「この人たちとイベントを立ち上げたい」「このプロジェクトに参加したい」「この企業で働きたい」と思った時に、従来は履歴書を送るなどしていました。履歴書で経歴を見たら、私の技能や今までの成果が伝わります。でも、それだけでは私がどういう人なのかは温度感をもって伝わりません。

ここで重要になるのが、SNSでの発信です。

相手に私のSNSでの発信を見てもらえば、私がふだん何をしていて、どう感じ考え、どのような人と繋がっているかなど、私の人柄と周辺環境までが詳細に伝わるんです。大事なスタッフやビジネスパートナーを選ぶには、人柄は大きな要素になりますよね。

もちろん、面接でも人柄は伝わります。ですが、特に自分がこれから参入したい分野についての熱い思いを発信してきたのなら、面接のような短時間でフォーマルな場でのやり取りよりも、SNSアカウントを見てもらった方がその熱量が遥かに具体的かつ多岐にわたって伝わります。結果、自分が「選んでもらえる人になる」可能性は高くなります。

つまり、発信者でいることで、自分のその分野での市場価値は高くなるということです。

 

「自分を選んでほしい」と思ったときに発信を始めても、遅すぎます。その時までにすでに多くを発信している人たちの中から、何も発信していない自分が選ばれることはありません。その時は自分も選ぶ立場でもあるので、このシビアな現実は理解できると思います。

だからチャンスが来た時に選ばれるために、普段から発信しておくんです。

 


今もすでに、仕事も遊びも仲間との交流も、ネット上で見つけネット上で完結する機会が多くなっています。今後その動きはますます加速するでしょう。リアルだけでなく、ネット上でも「選んでもらえる人」になることで、仕事でも私生活でもワクワクの機会は何倍にもなります。だってね、自分が強烈に好きなものを自分と同じ熱量で好む人は、同じ学校や職場や町内などにはいないかもしれないけど、きっと世界中には何千人、何万人といるはず。そんな人たちと一緒に、面白いことをしたいじゃないですか。

 

今後の世界で、どのような発信方法が出てくるかはまだわかりません。ただ、どのような形であれウチの姉妹には早くから発信者になってほしい。そして、ワクワクを共有できるまだ見ぬ仲間たちから「選んでもらえる人」になってほしいと願っています。

姉妹への読み聞かせの記録(4才+2才現在)

このエントリは、ただの記録です。

今までにどんな本をどのくらい読んだかを、恵美と和美のそれぞれについて書き留めるだけのものです。

本人の2人、または本人を知っている人であれば、「これくらいの読み聞かせで、これくらいの日本語(と韓国語)が話せるようになるんだね」という実証が確認できると思います。もちろん、2人の言語力は読み聞かせだけでは決まりませんが。

2人のことをご存じない方は、貴重なお時間を(このエントリでなく)どうか他のことにお使いください。

 

 

 

恵美の場合

 

どんな本を読んだか

0才〜

生まれた当初は、まともに読める絵本を3冊しか持っていなかったので、これを毎日3回ずつ読み続けた。どれも3才以上向けだと思う。1つは読むのに15分くらいかかり、対象は4才から(と書いてある)。

その後、赤ちゃん向けの本も少しずつ入手して、赤ちゃん向けと幼児向けの本を併せて読むように。


1才〜

0才の時より手持ちの本が増えたけど、易しい+難しい本を並行して読むのは前と同じ。

1才後半は、読みたい本を自分で選んだりもした。動物が出てくる話が中心。30秒で読める本から、15分かかる本まで。


2才〜

本の好みがはっきりしてきて、何度もたくさん読む本とほんの数回しか読まない本が出てきた。好きなのは、動物が出てくる本、絵が優しい雰囲気の本、アンパンマン。怖い登場人物(オオカミ、オニ、悪魔など)が出てくる本は、怖がって開きもしない。


3才〜

動物がたくさん出てくる本ばかりでなく、人だけが出てくる本や、虫の本、乗り物の本なども(とーさんが選んで)読み始めた。アンパンマンを卒業して、しまじろうが多くなる。

たまたまこのタイミングでもらった、「科学の友」のような理科や社会っぽい本も読み始めた(絵本ではない)。30秒ほどで読める赤ちゃん向けの本も、3才前半はまだ好んで読んでいた。

3才の終わりには、さすがに赤ちゃん向けの本には興味がなくなった。「ゾロリシリーズ」を読み始め、一冊読むのに40分かかるけど結構お気に入りの様子。難しい言葉は分かっていないけど、話の流れは半分くらいは理解しているのかも。

四コマ漫画の「こげぱん」、「魔女宅」の写真マンガ(?)、ドラえもんなどもときどき読んでいる。マンガに慣らし始められて、とーさんとしてはラッキーな流れ。マンガを好きになって、自分で読み始めることを願っている。今のところ、本人もマンガを楽しんでいる。

 


3才終わりまでに読んだ本は、500冊(種類)くらいだと思う。

手持ちの絵本が300冊とちょっとで、そこに図書館や友人に借りた本、マンガや科学の友的なものを合わせて、だいたいそれくらいかと。

 

 

 

どのくらい読んだか(読み聞かせの時間)


こまごまと下に書きますが、0〜3才終わりまで通して1日の読み聞かせ時間は、毎日30分〜1時間くらい。ときどき1.5時間以上の日も。

 

0才〜 1日1時間くらい。1回の読み聞かせ20分くらい×3回。朝寝前、昼寝前、夜の就寝前に。

 


1才〜 

1日に0分〜1時間

読み聞かせを嫌がってできない時期が途中3ヶ月くらいあり、本読み時間はまちまち。

読み聞かせができなかった理由はおそらく、

・手持ちの本に飽きた?

・年齢相応の本が少なかった?

・本読みよりも遊びたい?

絵本の数が少なくて飽きてしまうのは、生まれて以来ずっと悩み。メルボルンでは、絵本がなかなか手に入らない。

 


2才〜 

1日30分〜1時間

2才前半あたりから、読み聞かせで(昼は)寝落ちしなくなり、ズルズルと2時間近く読んだ日も。この頃、日和が産まれていたけど、かーさんが家にいたので恵美の読み聞かせには影響なし。

2才後半はかーさんが働いていることが多く、読み聞かせがあまりできないことも。

 


3才〜 

1日30分〜1時間

3才前半は、1日1時間くらい。夜、寝落ちするまで読んでいたので。

3才後半は、1日に30分くらい。

夜寝る前の読み聞かせが30分前後。昼間も家にいたら時々は読むので、そういう日は合計1時間くらい。

 

 

2才後半から、韓国語の本もほぼ毎日読み聞かせをし始めている。1日10〜20分くらい。

 

 

 

和美の場合

 

どんな本を読んだか

 

0才〜

読み聞かせをしていない。

この頃は、恵美に読み聞かせをするだけで精一杯。(特に和美0才後半はかーさんがいなくて地獄)


1才〜

読み聞かせを始めた頃は、恵美と同じく易しい本と難しい本を併せて読む。が、1才後半になると易しい本はほぼ読まず、恵美と同じような本ばかり読む(読みたがる)ようになる。内容はほとんど理解できていないと思われるけど、静かに集中して聞いている。

何度か読んだ本は(絵に?)飽きてしまうので次々に新しい本を読み、1才終わりには読む本(読みたい本)がほとんど無くなった。気に入って何度も読める本は、300冊の中の5冊くらい。


2才〜

「科学の友」のような本や、しまじろうに手を出し始める。一般の絵本も読むけど、集中できる時とできない時でむらがある。お気に入りだった5冊も何度も読みすぎて、2才3ヶ月で読まなくなる。

和美が理解できてかつ楽しめる本選びが難しけど、新しい本であれば難しくても興味がなさそうでも聞いてるので、とにかく新しいものを次々に読んでみている。「ゾロリ」も1冊40分間、静かに聞いている。「こげぱん」もドラえもんも読む。ほとんど理解はしていないだろうから、初めて見る絵をひたすら眺めているだけのような。。。

ただ、年齢相応くらいの本は理解できるようになってきたのか、以前に飽きて読みたくなくなっていた本が、最近(2才3ヶ月現在)また読めるようになってきた。

 

 


どのくらい読んだか

 

0才〜 

0分


1才〜 

1日40分〜1時間

1才前に昼寝が1回になり、読み聞かせのタイミングが昼夜2回。1回に20分〜30分くらい。


2才〜 

1日30分〜1時間

基本は夜の就寝前に30分前後。時々、昼間に読んだり読まなかったり。

 


和美も1才頃から韓国語の読み聞かせを始めたけど、恵美ほどは読めていない。

 

 

 

以上です。

 


本の読み聞かせについての、ベネッセや他の団体が調査した結果と比べてみると、時間については平均よりも少し長いくらいのようです。

読み聞かせには力を入れてきたつもりなんだけど、こうして振り返ってみると、そんなに読んでないなって気がする。とはいえ、大事なのは恵美さんたちの身になっているかという結果ですからね。とーさんがどれだけ読んだかは、問題ではありません。

 

以上、4年間の記録でした。

 

0-4才まで読み聞かせをして、考えたこと

オーストラリアで生まれ育つ子供たちに日本語を身につけてほしいので、日本語での本の読み聞かせをずっと続けてきています。自分自身が本好きで、子供にも本を好きになってほしいという思いもあります。

2020年4月で、恵美4才、和美2歳になったので、とーさんの読み聞かせも4年になるわけですね。

スポーツでも料理でも、4年も続ければ上手くなるものですが、自分の本読みは相変わらず4年前と同じことを繰り返しているだけで成長がありません。ですが、聞く側の子供はどんどん成長します。すると、子供が0才の時にはわからなかったことが、4年間の子供たちの成長や反応から見えてくるんですね。今の気づきを、4年前の自分に教えてあげたい。

 


何に気づいたかというと、

1.0才から難しい本も読んだほうがいい

2.年齢相応の本は必要

3.長子への読み聞かせを優先する

4.本は山ほど必要

 


当たり前なことばかりですか?かもしれませんね。でも、こうしたことが父親1年めの自分はよく分かってませんでした。特に1点目は、4年前に仮説はあったけど実証はできるはずがないので、今ようやく「これは大事だ」と言えるようになりました。

今回のエントリはこの1点目についての詳細と、2〜4について少しだけ書きます。

 

 

 

1.0才から難しい本も読んだ方がいい

 

絵本の後ろを見ると、「読み聞かせるなら4才から」のような推奨年齢が書かれているものがあります。「語彙力や内容の理解力を考えると、4才くらいから読み聞かせてやるのが適当でしょう」ということです。とーさんはこの推奨年齢をまったく気にせず(というか、4年前はこの表記があることすら知らず)、子供が0才の時から4才むけや年長さん向けもどんどん読み聞かせました。もちろん、易しい本も読みましたが、難しい本を読んでいる時間の方が圧倒的に長かったです。


で、結果的に良かったと思っているのですが、その理由は3つあります。

 


①長時間、読む(聞く)ことに慣れ、インプットの量を確保できる

 幼児向けの本は文字数が少なく、読むだけであれば1冊に1分かかりません。一緒に絵を見て言葉を教えたり、絵から想像して話を広げたりする楽しみ方もありますが、とーさんはそういうのが苦手です。なので、文字を読んで終わりです。5冊読むのに5分もかかりません。15冊読んでも、10分くらいにしかなりません。

 対して、難しめの本はたいてい長いです。1冊読むのに5分〜15分ほど、3冊もあれば20分以上読み聞かせができます。恵美が0才当初から言葉のインプットの量を確保したいと思っていたのですが、あいにく本が簡単には手に入らない環境。必然的に、数冊ばかりの難しめの本を繰り返し読むことになりました。

 姉妹は2人とも、長時間本を読むことに慣れています。それは、0才や1才の時から長い(難しめの)本を読み聞かせしていたからかもしれません。現在は、1冊読むのに40分かかる「ゾロリシリーズ」でも、2人とも身動きせずに最後まで聞いています。おかげで、これまでのインプットの量だけを考えると、結構多い方だと思います。

 


とは言え、「長時間読み聞かせしても、話の内容も言葉の意味も分からないのでは、意味がないのでは?」と思われるかもしれません。だけどとーさんは、下の2点については意味があると考えています。

 


②文法や文構造に慣れる

日本語では省略されることが多いですが、多くの文が、「主語は述語だ/主語が述語する」のような形でできています。文の中に知らない言葉がいくつか入っていたとしても、何度も何度も聞いていれば、文の構造そのものは分かってきます。

日本語の語彙はゴマンとありますが、文構造のパターンは限られているので、慣れてしまうのはそれほど難しくはないでしょう。

 


また、例えば

「だから、すると、〜時に」などの接続(助)詞も何度も出てきて、少なくとも「そういう言葉がある」ということを知ることができます。意味や使い方はその時点では分かりにくいでしょうけど、絵本の役目はそこまででも大丈夫。

やがてその言葉を、とーさんが使ってたりとかアンパンマンで聞いたりなどして、少しずつ意味と使い方を理解していきますから。

 


他にも、

普段の会話では省略されることの方が多い助詞も、書き言葉では使われていることが多くあり、「てにをは」に慣れてきます。

オーストラリアで生まれ育つ恵美と和美には、助詞は重要な点。なぜなら、大学受験のセンター試験的なテストで日本語を選択するとしたら、助詞が適切に使える必要があるからです。

海外で日本語に触れるのは会話が中心で、読み書きすることはあまりありません。なので、普段の生活だけでは助詞に慣れません。だから、絵本などで意識的にたくさん聞かせるようにして、助詞が感覚的に使えるようになってほしいと思っています。

 


以上のように、難しめの本を読むことで、日本語の骨組みのようなものがしっかりとできてきます。骨組みができたら、普段の会話でも、適切な文法で、(単語だけでなく)文で話せるようになります。

ここからは、家を作る段取りで言えばドアや窓をはめたり、壁を入れたりする作業が必要になります。

それが、次の点です。

 


③表現の幅が広がる

難しい本に出てくる語彙は、幼児向けの本と比べてかなり多いです。意味と結びつかない言葉は記憶に残りにくいので、その多くは右から左に流れて行くだけかもしれません。

ですがその中でも、理解し定着しやすいものがあります。それは、動詞と形容(動)詞です。

 


なぜなら、動詞や形容詞は

・数が限られていて、同じものが何度も出てくる

・登場人物の絵の動きや様子と結びついている場合が多い

・実生活でもよく使う

からです。

 


名詞はたくさんあるので、分かりにくいものもどんどん出てきて理解が追いつきません。だけど、数が少なくて何度も出てくる動詞なんかは、名詞に比べたらはるかに理解しやすいでしょう。

 


文末表現も、同様の理由で理解と定着が易しいと思います。

文末表現というのは、例えば「〜してしまう、〜なんです、だろうか、〜なんだって」などの、文の締めくくりにもう1つ意味を添える表現のことです。

子供の話し言葉で文末表現に幅が出てくると、幼児っぽさが抜けてきたなと感じます。

 

 

 

以上が、0才から難しい本も読んだ方がいい3つの理由でした。

以下に、とーさんのその他の気づきを少しずつ書きます。

 

 

 

2.年齢相応の本は必要

絵本はそもそも、読んで楽しむのが一番の目的です。なので基本的には、子供が楽しめる(少なくともイヤではない)本を読んでいます。

ちなみに、年齢相応の本は言葉が理解しやすいので、読むほど子供の語彙が増えます。難しい本で骨組みを作り、易しい本で肉付けするというパターンがベストですね。

 

 

 

3.長子への読み聞かせを優先する

読み聞かせはなるべく1人ずつしていますが、2人分の時間が取れないときは恵美にだけ読んでいました。恵美の言葉が上達すると、それを和美が普段の会話で引き継げるからです。

かーさんの仕事の都合もあり、和美には1才になるまで読み聞かせはしていませんでした。それでも、恵美の影響を強く受けて、和美の言葉は2才でかなり達者になりました。

 

 

 

4.本は山ほど必要

子供は同じ本を何度も読むのが好きだし、言葉の上達には効果的です。が、1日に最低5冊、多ければ15冊読む日もあったので、親子共々さすがに飽きます。

この4年間、一時帰国のたびに買い足して、今では家に350冊くらい。友人や図書館で借りた本を合わせたら400冊以上を読んでいて、それでも足りません。

恵美が生まれたばかりの帰国時に買ったのは、たった4冊だけ。貴重な帰国なのに、もったいない。「もっと買っておけ」とその時の自分に教えたい。

 

 

以上が、とーさんが4年間読み聞かせをしてきて気づいたこと(で、たぶん当たってると思ってること)です。当たり前のことばかりかもしれないけど、恵美さんも和美さんもママになったばかりの時は分からないかもしれないので、参考になるといいなと願ってます。

子供はどんどん比べましょう

「やっぱ、子供って比べてしまうでしょ?」

「えー?ダメですよ〜!」

3年くらい前かな、恵美がまだ1才くらいの時のこと、ママ友2人と話していて2人から秒でダメ出しされました。時々こうして人からダメ出しされる残念な大人が、とーさんです。

 


「子供を比べるのは良くない」としばしば目にします。そうですよね、だって

「お友だちは自分でトイレに行けるのに、どうして恵美はできないの?」

などと親がため息をついたり、叱責してきたりしたら、子供はこの世の終わりくらいに悲しく落ち込むでしょう。

自分はダメな子だと思い込み、親に見放されないかと不安になり、友だちには嫉妬やライバル心を燃やし友だち関係が屈折してしまいそう。

ましてや姉妹間で比べて、「お姉ちゃんはあんなによくできるのに・・・。」などと妹に言ったら、妹は家での居場所がなくなってしまいます。

 


「子供を比べるのは良くない」というのは、よーくわかります。

でもね、みんな子供を比べていないのかな?

 


例えば、自分の子供は

・十分に睡眠を取れているのか?

・バランスよく何でも食べているのか?

・トイトレが上手くいってないかも?

・言葉が遅い(早い)?

・イヤイヤ期のかんしゃくがひど過ぎない?

・習い事した方がいい?何を何才から?


こうしたことが気になったら、ネットで専門家の話を読んだり、ママ友のお子さんの様子を聞いたりするでしょ。プレイグループや公園で遊んでいる時に、よその子の食べ方や話し方を見てしまいますよね。

そうすることで、

より良い(より自分の子に合った)寝かしつけや調理方法を学ぶだけでなく、

「ウチの子は平均よりももっと寝てるな」とか「あの子も、うちと同じでトイトレ苦戦してるんだね」などと安心したり、

「ウチの子は言葉が遅い?〇〇ちゃんはもうあんなにお喋りが上手なのに」と焦ったり、

「ウチの子は周りの子よりもいろんな野菜を食べてて、すごいじゃん」と、ちょっと嬉しくなったりするものじゃないでしょうか。


その上で、

「寝かしつけは大丈夫。トイトレの方法を少し変えてみよう」と方法を確認・改善したり、

「何才でどれくらい話せるものなのかな」とより詳しく調べたり、

「恵美は何でも良く食べて、すごいね!」と盛大に褒めたりするのだと思います。

 


比べることで、

自分の子供が今どこにいるのかがわかります。また、

自分の子育てが客観的に見えてきます。

 


気になったことをネットで調べるのもママ友に質問するのも、我が子や子供や自分の方法を比べているんですよね。これをしない人はいないと思います。さらに言えば、親御さんは誰だってよその子供を見た時に、どこかで無意識に自分の子供と比べているものだと思います。

とーさんは子供や自分を比べないで子育てできるほど、自分のしていることや考えに自信がありませんよ。

 


比べることそのものは、問題ではありません。むしろ、必要なことです。

では、どうして「比べるのは良くない」と言われるのでしょうか。

それは、比べた結果

・否定的な結論に行き着き

・それをそのまま子供に伝えてしまう

という悪いパターンに陥るケースが多いからでしょう。

 


子供を比べるのは問題じゃないです。

比べて導き出した結論とアウトプットが問題なんです。

 

 

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比べる時の流れは、下のような感じでしょう。

 


①インプット(調査、聞き取り、観察)

ネットで調べる、ママ友に聞く、他の子供を観察するなど。


②比較(情報の分析と判断)

集めた情報を、自分や子供に照らし合わせてみて、どういう事なのかを考える。


③アウトプット(フィードバック、改善)

比較した結果や自分の考えを子供に伝えたり、自分の考えや行動を変えたりする。

 

 

 

改めて問題を2つ確認します。

 


1つ目は、

②比較の時点で自分の子供に不利な情報ばかりを拾い上げ、「だから、ダメなんだ」という否定的な結論を出すこと。

子供を比べるって、自分の子供のできないところを見つける作業になりがちなのではないでしょうか。

すでに持っているものには感謝しなくなるのと同じで、「良いこと、できたこと」は、「もう済んだこと、クリアしてしまったこと」として忘れてしまいがちです。そして、「ないもの、できないこと」ばかりが気になってしまうものです。


ただ、この時点で否定的な結論を出しても、まだ大丈夫です。「では、何ができるか。どうしたらいいのか」を考え、実行していけばいいのですから。

 

 

2つ目は、

③アウトプットする時に、否定的なフィードバックをしてしまうこと。これが本当にまずい。

②で否定的な結論に行き着いて、イライラしたまま子供にぶつけてしまうパターンです。(きしもとたかひろ氏の表現を借りれば)こんなの、ナイフで子供を刺すのと同じ行為です。刺した直後に我に返ってすぐに傷口を押さえても、流れる血を止めることはできますが傷を治すことはできません。このことを親は肝に命じておいたほうがいい。

問題はたいてい親である自分の問題であり、自分の責任です。自分の考えと行動を変えることで、子供の変化を促したり待ったりすれば良いでしょう。


例えば、

子供がブロッコリーを食べたがらないのであれば、

・調理方法を変えてみる

・親が美味しそうに食べてみせる

・他の方法を調べる

・食べたくない時や時期もあると考える

・食べなくてもいいと考える(そもそも問題ではないから)

 


遊んだ後でいつも出しっ放しなら、

・一緒に片づけてみる

・最後の1つだけ片付けさせる

・親と競争(ゲーム)のようにして片付ける

・音楽をつけて片付ける

・おもちゃ箱や棚を工夫して片付けやすくする

 


他にも

友だちとおもちゃを順番に使えなかったら、

ご飯中に立ち歩いてしまうのなら、

言葉遣いが悪かったら、

物を投げたり蹴ったりするようなら、

すぐウソをついてしまうようなら、、、

 


事例はいくらでもあります。

こうした問題が気になった時に、他の子供と比べて、

「どうして〇〇はブロッコリーがたべられないんだ?」

「お友だちはお片づけが上手なのに。」

などというセリフは、まったくもって不要ですよね。自分が考えと行動を改めればいいんです。自分が変わるんです。子供ではありません。

 

 

否定的な内容だけれども、どうしても子供に伝えなければならないこともあるでしょう。

その場合は、伝え方に工夫が必要です。よく言われるのは、「良いこと、悪いこと、良いこと」のサンドイッチで伝える方法。

他にも、

・肩を抱いたり手を握ったりなど、身体に触れながら伝える

・しゃがんで、目線を合わせて伝える

・共感を示してから伝える

などなど、ネットで調べればいくらでも良い方法は見つかります。

 

 


さて、これまで子供のマイナス面をどう扱うかばかりに触れてきましたが、比べることでプラス面が見つかることも多いです。というか、プラス面にばかりアンテナを張っていれば、プラス面ばかり見えてくるものです。

子供ができること、良かったことなど、肯定的な内容はどんどん子供に伝えて盛大に褒めると良いですよね。褒められれば嬉しいし、もっと頑張ろうという気になります。自分の気づいていなかった良い面を知り、自己肯定感が強まることも考えられます。

比べると子供のプラス面が見つかり、どんどん褒めることができます。

比べるって、良いじゃないですか!

 

 

 

価値の有無や評価の良しあしが分かりにくい物事については、比べることでより良く理解することができるものです。

例えば、世界的な名画を見ても、とーさんにはそれが良いのかどうかはサッパリ分かりません。ですが、もう1つの絵を隣に並べて比べると、「こっちの方が色使いがきれいだ」とか、「そっちの方が雰囲気が好きだ」などと、つたないながらも自分なりの評価ができるようになります。

さらにもう1つ絵を並べて比べると、自分なりの評価はもう少し深みが出ます。さらにもう1つ、さらにもう1つと、たくさんの絵を見比べていけば、次第に評価する目が養われ自分なりの評価基準が固まってきます。そして最終的には、1つの絵を見ただけで評価をしたり、値打ちを推測したりすることができるようになります。クラシック音楽やワインなども同様でしょう。

その道のプロがたった1つの作品を見ただけで評価をくだせるのは、過去に鑑賞してきた何百、何千もの作品とその1つを比べているからです。比べずして「これは素晴らしい作品だ!」と決定的な評価を下せるのは、天才だけです。

 


親は誰だって、人間の心や体のような深くて複雑で分りにくいモノを相手にしているんだから、しかもそれが日々変化していくのだから、そしてほとんどの親が親としては「初心者」なのだから、子育てするにあたっては比べることがどうしたって必要です。あの子とも比べ、この子とも比べ、きょうだいでも比べることで、やっとその子のことが見えてくるんです。見えてきて初めて、その子に合った子育ての方法や内容が分かるんです。


だから子供は、どんどん比べましょう!

プレゼントは「もらって嬉しい」が大切です

もうすぐ4才の恵美への誕生日プレゼントに「エルサのドレス」を提案して、かーさんに1秒でダメ出しされました。ショッピングセンターを散々歩き回ってやっと「これか!?」とたどり着いたアイデアだったのに!ショックのあまり自分で考えることをやめてしまいました。で、グーグル先生に聞いてみたら、さすがですね、アイデアはいくらでもあるものです。

結局のところ、プレゼントは子供用のデジカメにしました。これにはかーさんも納得で、ゴーサインが出ました。


人の気持ちや考えが分からないとーさんには、人にあげるプレゼントを選ぶのはとても難しいことです。

でも、エルサのドレスって、そんなに悪くないと思うのですが、どうでしょうか。なぜなら、恵美がこのところ好きなのは、

・ドレスを着て踊ること

・お姫様(シンデレラ)ごっこ

・かわいいもの全般

で、エルサとアナ雪も(それほど積極的ではないけど)好きではあるので、エルサのドレスはきっと喜んでくれるはず。


なのですが。


プレゼントでかーさんが重視する観点の1つは、「長くたくさん使えるもの」ということです。

ドレスは普段着に使っても、着るのは週1〜2回くらいです。寒くなったら着ないかもしれないし、来年には小さくて着られなくなっているかもしれません。恵美は喜ぶだろうけど、他を考えましょう、と。


確かに、かーさんの言うこともわかります。でもこれって親の都合であって、子供の都合ではないですよね。「そうそう、服ってすぐ着れなくなるし、ドレスなんてそんなたくさん着るものじゃないしね」って、子供は言わないでしょう。子供はそんな先のことまで考えません。

 

 

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プレゼントを選ぶ観点は、だいたい下のあたりでしょう。


①もらって嬉しいもの

②とにかく楽しいもの

③知育、体育的なもの

④便利で役に立つもの

⑤長くたくさん使えるもの

⑥瞬間的で印象深いもの


①と②は、似ていますが分けて考えます。例えば服や装飾品などは、①であって②ではありません。もらったら嬉しいし、身につけるとワクワク感もありますが、カッコ良い服を着たり新しい帽子をかぶったりして友達に会う、学校に行くなど、「それを身につけて何かをする」のが使い方であって、オモチャのようにそのものを使って楽しむのとは違います。ただし、ドレスはごっこ遊びのアイテムでもあるので、②もアリかなと思います。

 


実際にプレゼントを選ぶときには、上の6つの観点を考え合わせることになります。例をあげてみると、


ブロック①②③⑤

クラフトもの①②③

かわいい文房具①③④⑤

絵本①③⑤

自転車①②③④?⑤

ゲーム①②③?⑤?

ドレス①②?⑥?

旅行①②?⑥

食事①⑥

遊園地①②⑥


もちろん、もらって嬉しいかどうか、使って楽しいかどうかなどは個人差があります。上の例は、恵美さんで予想した場合です。


で、ですね、

こうして見てみると、やっぱりドレスなんてのはポイントが低くてイマイチなように思われます。だけどいろいろと考えた案の中で、もらったときに1番嬉しくてインパクトが大きいのがこれかな、と思ったんです。

だって、小さな子供へのプレゼントで1番大切なことって、①の「もらって嬉しい」ってことでしょ?

 


当たり前なことをわざわざ言うようですが、プレゼントで①は絶対条件です。にもかかわらず、ここが忘れられがちなことがあります。特に、親が子供にあげるプレゼント。③④⑤を意識し過ぎるあまり、①を疎かにしてしまうんです。

プレゼントはどれも、場合によっては①の付かない(もらっても嬉しくない)ものになり得ます。


③④⑤をもっと具体的に言うと、

「これで〜が身につく」

「完成したら達成感がある」

「最初は難しいけど、練習して上手くなれば面白い」

「〜の時に役に立つ」

「続けていると体が強くなる/ 健康に良い」

 

といった具合です。

こうした理由は、実際にそれを経験したことのある大人の観点です。受け取る側がそれなりの年齢であれば、そういった価値を理解して、「(そんなに嬉しくないけど)大切なプレゼントをもらった」と感じるでしょう。でも、「今、ここ」に生きている小さな子供にとっては、何週間や何ヶ月も先のことを想像して価値を認めるのは難しいこと。「もらったその瞬間に嬉しい」という方がはるかに重要です。


もらって嬉しくないものなんて、子供にとってはプレゼントとしての価値はとっても低い。そういうものは、誕生日のような特別な日ではなく、別の機会に「必要なもの」としてもらったらよろしい。

 

 

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今までに実際にあげたプレゼントを振り返ると、


去年のクリスマスに選んだブロック(レゴのデュプロ)は、2人ともとても喜んでくれました。数ヶ月たった今も毎日のように遊んでいます。

結果は想定した通り、①②③⑤と言っていいでしょう。その時点で、恵美3才、和美1才10ヶ月でした。


恵美さん3歳の誕生日にあげたアンパンマンの言葉図鑑は、大きくハズレました。それまでは熱心なアンパンマン教の信者だったのですが、誕生日の直前に卒業してしまじろうに入信したためです。もらった瞬間「・・・?」という反応。

①②③⑤を想定していたのですが、結果はちょっとだけ③というところです。


2歳の誕生日は、トトロのカバンとキックボード。カバンは良かったです。でも、キックボードの評価は微妙です。2歳頃からの練習に加え、身体と運動能力の成長で面白くなるだろうと予想していたのですが、恵美さんは乗り物全般にそれほど興味がないようです(これはスクーターを試したことで分かりました)。機会があれば乗る程度で、自分からすすんで楽しむようには(もうすぐ4歳の)今のところなっていません。

想定は①②③⑤、結果は③⑤と言えるかどうかくらいです。

 

言葉図鑑もキックボードも恵美は今でも少し使うくらいですが、下の和美が使えるようになってきて、どちらも再び活躍しています。「次の子も使えるから」というのも、よくある親の都合。悪いとは思いませんが、その都合のために本人が嬉しくないプレゼントになったら良くないですよね。

 

 

とーさんの結論は、

小さな子供へのプレゼントは、ただただ「もらって嬉しい」が大切ということ。もらって嬉しかった瞬間は思い出に残ります。忘れてしまっても、心の糧にはなっています。嬉しいことをたくさん経験して育った人は、その後もきっと豊かで幸せな時間をたくさん過ごします。

「もらって嬉しい」その上で、なおかつ、ずっと楽しく遊べたり、学びがあったり便利だったりしたら、なおよろしい。

そんなことを考えた、4歳のプレゼント選びでした。

 


ちなみに恵美さんは最近、携帯のカメラで写真を撮ることに興味津々です。それに、最近見ているアニメ「オクトノーツ」で1番のお気に入りのキャラがカメラを持っていて、現場を写真に撮って記録する係なんです。なので、デジカメは「もらって嬉しい」プレゼントになるかなと期待しています。

とーさんは、自分の誕生日よりも子供らの誕生日の方がずっと楽しみですよ。

効率の良い方法は学びのジャマ。でも、効率よくしないと生活が回らないよね。

とーさんは仕事がデキない人です。作業の段取りが悪くて仕事が遅い。整理整頓ができないので必要なときに必要なものがすぐに出てこず、慌てて探したり作り直したり。納期に間に合わず同僚に迷惑をかけ、「今回の件は勉強になりました」と反省しながらも何も吸収せず、3日後には同じことを繰り返す残念な社員が、とーさんです。

社会に出ていかないことが、とーさんの社会貢献だと思っています。

 

対してかーさんは、仕事ができる人です。仕事が速く正確でモレがない。より良い方法をいつも考え、効率化を図ります。その有能ぶりに、どの職場に行ってもデキる人や上司からは信頼され、後輩からは頼りにされ、デキない人からは利用される。それがかーさんです。

※ついでに言えば、かーさんを利用するデキない人が、とーさんですね。

 


この能力差が原因なのか結果なのか分かりませんが、


かーさんは「効率と目標達成」が大事で、

とーさんは「遊びと学び」が大事

と考える傾向があります。

 

 

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少し前に、アデレードの友人を訪ねて、片道8時間(740㎞)のドライブをしました。

最後の休憩と給油を終えて、さあ後もう少しというところでグーグルマップを見ると、到着まで20分と表示されています。そこで助手席のとーさんは友人に、到着予定の時刻を連絡しました。

ところが、到着まで結局35分くらいかかりました。なぜかというと、使っていた車載ナビの地図がアップデートされていなくて、新しく作られた(ナビに表示されていない)高速道路に乗って遠回りすることになってしまったからです。

せっかく友人宅に近づいたのに、高速道路から降りることができずに家を通り過ぎ、どんどん離れていってしまいます。それにつれて、かーさんのイライラが募ります。

後20分で着くって友人に言ったのに!グーグルマップを使っていれば、道を間違えなかったのに!と。

でもとーさんは、

友人を少し待たせてしまうことにはなったけど、そんなに遅れるわけじゃないし(少し遅れるって連絡したし、いいんじゃない?)、

全く知らない土地で、ナビが違っているかもとか予測しないし(知らない土地なら間違いのない方のナビ使えよとは思うけど)、

回り道で通った丘の上からアデレードの町と海を一望できて、きれいな景色が見れて良かったじゃん、

くらいに考えていました。

 


かーさんは道を間違えることに耐えられないんです。


言い換えると、

かーさんは自分の準備不足や判断ミスによる過失が許せない、避けることのできたはずのミスに我慢がならない。

逆に、渋滞は大丈夫。自分の力の及ばない、仕方のないことだから。かーさんは自分に厳しく、変えられないものは受け入れるという、達観した姿勢です。

 


一方とーさんは、渋滞にはまることに耐えられません。


渋滞にはまって何もできないでいる時間の浪費が、どうにも耐えられないんです。本は読めない、携帯は使えない、できるのは考え事くらい。(同乗者がいたら、話ができるので大丈夫)

逆に、道を間違えても全く問題ないです。むしろ、新しい道を見れて面白いし、一度間違うと道を覚えやすいので、道を間違うのは失敗とも無駄とも感じません。寄り道、回り道、大好き。

 

 

これがとーさんとかーさんの、「効率と目標達成」と「遊びと学び」という考え方の違いの表れなのですが、2つは相容れない性質を持っています。


たとえばマックのようにがっちりしたマニュアルがあると、作業が効率よくこなせ、ハンバーガーが速く正確にお客さんに提供されます。ですが、「なぜその作業手順が良いのか」「どうしたらより速く正確にできるのか」という思考が(必要がないので)生まれにくくなります。

逆に、試行錯誤を繰り返してより良い方法を学びながら作業をしていたら、流れ作業の足並みを乱してしまい、いつまでもハンバーガーができません。それでは店は回りません。

「効率と目標達成」と「遊びと学び」は、一方に偏るともう一方を損なってしまうんです。


なのでウチは、いいバランスなのかなと思っています。

 

 

自分語りの前置きが長くなりました。なんでこんな話をするかというと、子供へのアプローチの仕方にとーさんたちの違いがちょいちょい表れるからです。その度に発見したり反省したりなので、書き留めておこうと思った次第です。

 

 

 

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去年のクリスマスに、とーさんは生まれて初めてクリスマスツリーを家に飾りました。子供の頃からの憧れがあり、子供のためというよりも自分が欲しかったというのが正直なところ。ですが、「いろいろ難しいな」と買ってから気づきました。


クリスマスツリーって、ビニールで作られたトゲトゲした葉っぱがパラパラと落ちるんですね。枝先にあしらわれている雪に見立てたプラスチック(?)のツブツブも、触るとパラパラ落ちてきます。それを、2歳前の和美が食べてしまいそうになったり、指につけたまま指しゃぶりをしそうになるので、ツリー周りの床掃除が欠かせません。

ツリーに吊るす飾りも、また曲者で。恵美も和美も、いったん吊るした飾り付けを、リンゴ狩りでもするように楽しそうに収穫します。

「和美、そっち取って!こっちは私に任せて!」

「うん、わかった!」

はりきって収穫した飾りは、床に散らばっていたりソファーの上に山積みになっていたり。これ、「ツリーあるある」らしく、だからツリーは飾らないという人もいました。

しかもウチの飾りの半数は、表面がキラキラのラメでコーティングされていて、これが問題。触るとラメが手について落としにくく、これをつけたまま和美は指しゃぶりをしてしまいます。

 


かーさんは、子供たちが飾りを取るのをやめさせようとしました。「ほら、こうやって飾っておこうね」と、一緒に飾り付けを直しながら。

クリスマスツリーは、飾り付けをした後は見て楽しむもの。完成した状態にしておくもの。飾りであって、オモチャではない。これがかーさんの最初の(よく考えてみる前の)発想。

確かにその通りです。が、これはオトナの考えであって、子供はそうは考えません。

 


とーさんは、飾りを取っても良いんじゃないの?と思いました。取るのも楽しいし、もう一度飾り直すのも楽しいものです。とーさんだって実は、ツリーを作って飾り付けをしている時が一番ワクワクしていて、完成したらもうワクワクはだいぶ小さくなってしまいました。あんなに楽しみにしていたのに、店でいくつも見比べて「あっちのツリーは、枝ぶりが良い」とか「そっちのは素材が安っぽい」とか言って念入りに選んだのに、完成したらただの背景、ただの飾り。作ったり使ったりしてこそ、楽しいんです。

それに、バラしたら直す、出したら片付けるというのも、子供たちの練習のうち。「完成した状態に保つ」ことを、目的にしなくてもいいでしょう。

 


かーさんの言うのが、効率の良い「正しい」ツリーの使い方。とーさんの言うのは、ムダだらけでスマートじゃないし、美しくもないけど、楽しいし学びがあります。

 


話し合った結果、キラキラの飾りは子供の手の届かない高いところに飾る、というところに落ち着きました。子供がキラキラじゃない方の飾りを取ってしまうのは、許容しましょう、と。

 


その後、どうなったか。


→1度や2度は、子供たちと一緒に飾りを直したが、1歳児+3歳児と一緒に何度も直すなど(めんどーなので)できるわけなく、ほとんどとーさんが直すことに。


→数日後には(めんどーになって)飾りを直さず放置。


→部屋のあちこちに、宝物のように飾りが置かれたり隠されたり。ソファーは使えなくなり、床に落ちている飾りを踏んで壊したり、ベンチの上の「修理待ち」の飾りがジャマだったり。


→リビングはぐちゃぐちゃ、気分良く生活できない。


→最悪の状態にはならないようにと、最後に片付けてくれていたのは結局かーさん。

 


生活全体(と、とーさんのズボラさ)を考えると、やっぱりかーさんの言う通りです。ありがとう、かーさん。そしてごめんなさい。

 

 

 

「効率と目標達成」か「遊びと学び」のどちらを優先するか考える場面は、クリスマスツリーのような大きなイベントでなくても、普段の生活の中でたくさん出てきます。


例えば、

・出かける準備(着替え、カバン用意、クツを履くなど)


・トイレの後(紙で拭く、ズボンを上げるなど)


・ご飯を食べる時(特に納豆とカレー!)


・公園に向けて散歩に出たとたん、家の前の砂地で遊び始めて動かない時


・子供の要望でテレビをつけたのに、他の遊びを始めて画面を見ていない時

 


こういう場面で効率よく目標を達成するために手伝ったり、説得したり急かしたりするかどうかが、考えどころです。

 

とーさんは、あまり手を出しません。睡眠不足、栄養不足、不衛生で不健康にならない限りは、少しくらい時間にルーズになっても良いし、目標を達成しなくてもかまいません。なのでウチは幼稚園に遅刻したり、ご飯を食べ終えなかったり、散歩の目的地が変わったりすることがよくあります。クツが左右逆なのは、当たり前。

そもそも、子供にはどうしても達成するべき大事な目標なんてないでしょ。それよりも、遊びと学びの方が圧倒的に大事。

 

 

効率と目標達成を優先するのは、迷路でゴールまでの線をあらかじめ書いておいてやるようなものです。迷路は「こっちかな?じゃ、こっちは?」と迷ったり間違ったりしながら進むから面白いのであって、進むべき道がわかっていたら面白くもなんともありません。遊びはゼロ、学びは1つだけ。いちおう、学びはありますよ。「こう進んだらゴールできます」という、正解が1つ得られます。

 


対してエンピツのガイドがなかったら、迷い間違いながらながら進む粘り強さ、仮説を立てて検証する姿勢と方法、ゴールした時の達成感と自信、そして正解を1つ得られます。ガイドなんて無い方がいいでしょ。

 


ちなみに、迷わずまっすぐゴールして得た正解と、迷いながらゴールして得た正解は、全く性質が違います。後者はあらゆる失敗や不正解を経験した後の正解なので、これを得た人はもう一度同じ迷路をしたら簡単にゴールできます。

でも、まっすぐゴールで正解を得た人は不正解を知らないので、ゴールまでのガイドがなくなったら迷ってしまう可能性が高いです。ガイド付きで得た正解は、とってももろくて弱いんです。子供にたくましく育ってほしいと願う親がそのガイドの線を引いてしまったら、本末転倒です。

 


効率よく目標を達成するよりも、迷ったり間違ったり横道にそれたりしながら楽しく少しずつ前に進む方が、子供には(時には大人にも)必要です。結果、ゴールできなくてもいーんです。自分のたどり着いたところが、自分のゴールで良いじゃないですか。そこまでの道のりが、楽しく学びのある道のりであるのならば。

 


とーさんは人生観として、この「遊びと学び」優先の考え方が好きです。ちきりん氏も言うように、「人生は何かを成し遂げるためのものではなく、楽しむためのものなのだから。」

そんじゃーね!